「教育フォーラム2021 ~令和時代の教育をリードする~」を参観して
2021.8.2令和の日本型学校教育とは?
2021年6月6日 岐阜聖徳学園大学のサテライトスタジオで 「教育フォーラム2021 令和時代の教育をリードする」が開催された。このフォーラムを参観・取材することができたので大学外の者が感じた内容を発信する。
[取材] ENISI KIROKU FILM [文章] 荒巻 咲
今回で第4回目となるフォーラムは、現状を考慮し初のオンライン生配信(YouTube Live)で行われた。参加費は無料で興味があれば全国どこからでも、誰でも視聴可能という、新しいスタイルで行われた。開催毎にその時に即した題材、人物を集め熱く議論するのが特徴のこのフォーラム。
今回は文部科学省から重要人物を迎え、さらに3名違った角度からの研究分野をもつ岐阜聖徳学園大学の教授が登場した。
シンポジスト・パネリストをご紹介する。(当日の紹介順)
全二部構成、およそ二時間に渡りフォーラムは生配信された。
第一部では、「令和の日本型学校教育の構築をめざして」という題で浅野氏による最新の情報満載のご講演。
第二部では、60分のセッションで玉置教授進行のもと、令和時代の教育をどのような観点で行ったら良いのか、浅野氏と3名の教授によってシンポジウムが行われた。
なんと言っても今回注目の論点は「令和時代の教育」について。 令和3年1月26日に中央教育審議会が「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~」を答申したばかりだ。
この湯気が上がるほどの新鮮でタイムリーな話題に、いち早く反応しフォーラムを開催したのが、教育に力をいれ毎年質の高い教員を輩出している岐阜聖徳学園大学で、各方面からも注目が集まっていた。 withコロナ時代、急速に変革する教育現場。 今後令和の教育はどうなってしまうのか? 関心の集まる話題を熱く議論した様子をピックアップしてお届けする。 ディスカッションの全容は現在もYoutubeにアップされているので、ぜひ動画を視聴していただきたい。https://youtu.be/wDEO6jOhG0M
[撮影・配信] ENISI KIROKU FILM
目次
第一部 浅野氏講演
○ GIGAスクール構想、一人一台端末の実現にむけて
第二部 パネルディスカッション
○ 「令和の日本型学校教育」って言い方、古くないですか?
○ ICTの管理システムの拡充によって自由は阻害されるのか?
○ ビルド&ビルドばかりの現場。教育にこそ「不要不急(トリアージ)」の考え方では?
○ 「個別最適な学び」とは結局、どういうことか?
○ 令和時代の教育をリードするために、まず何をするか?
フォーラムを終えて
○ 玉置教授インタビュー
第一部 浅野氏講演
フォーラム当日。
外はカラッと晴れた夏日だったが、岐阜聖徳学園大学のサテライトスタジオは、ソワソワとした空気で満ちていた。この1年ですっかりオンライン授業に慣れた教授方も、大きなアクリル版に仕切られ、さらに複数設置されたカメラで生配信されることに落ちつかない様子。
しかしそれ以上に今回は文部科学省から遥々お越しいただく浅野氏に、どんな面白いお話をきき、意見を交わせるだろうかということに期待が集まっていたように思う。
「本当にいらっしてくださるのか半信半疑でした」
と思わず吉永教授がこぼすくらい、またとない機会だった。
今まさに当事者である方々ににとって、知りたいこと、ぶつけたい思いは山のようにあるだろう。
果たして、浅野氏は何を語ってくれるのだろうか。
GIGAスクール構想、一人一台端末の実現にむけて
はじめに浅野氏は一昨年の4月時点で行われた諮問について語った。
「内容は現在の学校教育の成果、社会の急激な変化にともなった現在の教育課題、そしてSocaiety5.0時代の教育・学校・教師のあり方、新時代に対応した教育のあり方と非常に幅広かった」
しかし状況は、刻一刻と変わるもの。 諮問のときに想定されていなかった波が審議に被り、内容の見直しを迫られた。一つは現状も続く、新型コロナウィルス感染。
そしてもう一つが、今回のフォーラムでも外せない「GIGAスクール構想」だ。
これこそが、新たな時代の教育の大事な骨組みの一つとなるものなのだが、実際に言葉をきいたことはあっても、それが一体何であるのかを深く知っているのは、教育現場に近い人だけかもしれない。
GIGAスクール構想のGIGAとは「Global and Innovation Gateway for All」の略で、文部科学省では
『1人1台端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備することで、特別な支援を必要とする子供を含め、多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、公正に個別最適化され、資質・能力が一層確実に育成できる教育環境を実現する』
と明示している。 まさに令和時代の教育のスタンダートとなるものだ。
これをサクサクっと導入できれば良いが、物事は思うようには進まない。調査の結果『PISA2018 “ICTの活用調査”』にて世界的に日本の学校におけるICT環境が大幅に遅れているという厳しい現状が浮かび上がったという。さらに浅野氏は語る。
「コロナ渦において、学校は人と安全・安心につながることができる居場所としての福祉的な役割を担っており、単に学習機会や学力を保障するためだけの場所ではないということが、改めてわかった」
その結果、「今までの良さを継承しつつ、先生方の働き方改革やGIGAスクール構想を推進しながら新しい学習指導要領を着実に実施していく」というのが改めて令和の日本型学校の考え方となった。 そして肝心のその中身については、『全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと協働的な学びの実現』を柱として進めていくことが決定した。
「一斉授業か個別学習か。履修主義がいいのか習得主義がいいのか。デジタルがいいのかアナログがいいのか。オンラインがいいのかオフラインがいいのか。二項対立に陥らないで両方をうまく組み合わせて教育を進めていくことを大事にしていく」(浅野氏)
令和の日本型学校教育の構築の説明はスライドは全65ページにも渡った。
……難しい。かつ、なんて情報が膨大でやることが山のようにあるのだというのが率直な感想だ。
教育現場で教壇に立つ先生方はこれを見てどのように思うのだろうか? 新しい時代の教育に期待感や高揚感を覚える前に、途方に暮れはしないだろうか? それだけ今変革が求められているということだが、一体どれだけの人がこれを噛み砕き、現場に落とし込むことができるのか。
やや重たげな空気のまま前半戦の幕が閉じた。
第二部 パネルディスカッション
「令和の日本型学校教育」って言い方、古くないですか?
休憩を挟み、第二部がははじまるとともに、いきなり玉置教授が鋭く切り込んだ。ライブ感を大事にしたいという宣言の通り、投げかける順番は一切決まっていない。これには思わず浅野氏も苦笑する。
「いつも波風立てる芳賀教授いかがですか?」
とさらに玉置教授が振ると、芳賀教授は「オンライン太りでスーツが着れなくてすみません」と笑いを誘ってから資料を提示した。
「日本型学校教育というのは諸外国から高く評価されているとあるが、OECDの日本語版の出典(平成30年7月27日および平成25年10月8日)をよく読み解くと、皮肉られていて褒めらていない。(中略)80年代は体罰が当たり前、竹刀をもつ教師や厳しく髪型や服装が定められるなど“管理主義教育”のイメージが強くある。日本型教育とはそういったものを想起する。」
そんな古いイメージを持たせる一方で、70年代・80年代は既に「個別化・個別化教育」が東浦町緒川小学校で行われていた事例もあるという。またプログラミング教育は80年代、情報モラルは90年代に行われており、当時日本は世界最先端であったというのだ。しかし残念ながらこのことはあまり評価されなかった。
1989年の中学校学習指導要項に「情報モラル教育」は盛り込まれず、ついにはアップデートもされないまま、なんと10年間も放置されてしまったというのだ。そしてあろうことかその期間にインターネットが爆発的に普及した。
結果、どうなったか。
「日本の情報化は停滞してしまい、情報モラルは〇〇してはならない、という禁止事項ばかりの後ろ向きな教育となってしまった。しかし世界的をみると、デジタル・シティズンシップを強力に推進している。日本はそれに対応しきれていない。そんな中で、日本型教育と言われてしまうと遅れをとっているようなイメージがあるのではないかと思っている」(芳賀教授)
浅野氏も頷いた。
「ご指摘いただいたような部分の遅れはある。だからこそ“日本型の”学校教育を進めようということではなく、令和の新しい形の中で、良い部分は大事にし、遅れている部分は伸ばしていくというのが今回の大きな方針だと思います」
芳賀教授も続けた。
「日本型、という言葉に補足が必要ですね。ぱっと聞くと昔の伝統的な日本型でしょ、と思われてしまうので」
ICTの管理システムの拡充によって自由は阻害されるのか?
今度は哲学者の視点から吉永教授が投げかけた。
「デジタル・シティズンシップは早急に進めていかなければなりませんが、他方でデジタル化によって管理がもっと徹底された形で進み、受け手もそれを心地良いと感じてしまうのはすごく危険だと思っています。それは人間を画一化することに行き着きます。(中略)ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』にあるように、“人間が人間を画一化していい理由は何もない。自由は個人にとっても社会にとっても必要なもの。自由を尊ばない社会は衰退してしまう”。思考力・判断力・表現力は自由がなければ涵養されません。
その自由の担保はどうされるのか、教えていただきたいのです」
私は結構学校現場を視察しているのですが、と前置きし浅野氏が丁寧に返答する。
「ICTが入りGIGAスクールが構想が進むことで、今まで一方通行で与えられていた知識・情報を子供たちが自主的にとりにいき、それを評価し自分なりに考えて意見発表するようになってきていると授業を見ていて思います。
今までは手を挙げている子供たちにしかそのチャンスがなかったのが、恥ずかしがり屋で自信のない子供たちにも、自分の意見として周りの人に伝えることが出来る。そんな手段の取っ掛かりとしてICTで表現できるということは、より自由にものを考えて作っていけるチャンスがある。それがGIGAスクール構想なのではないかなと思っています。管理ではなく、どうサポートしやすくなるのかなという部分ではないでしょうか。
ただ授業のやり方によっては、画一的になりかねないので、そこは考えて研修をしっかりやっていきます」
ビルド&ビルドばかりの現場。 教育にこそ「不要不急(トリアージ)」の考え方が必要では?
「本当にシンプルな質問ですが、やることが多すぎませんか?」 ついに篠原教授が静かに問いかけた。
「今大事なことはこれからの教育に対する考え方ですよね。“日本型教育”というのは知・徳・体一体の教育体制。それは見事だったと思う。今までの日本を築いてきた。ただ、詳しくみれば教科の指導・生徒指導・さらに課外の部活指導。それを支えている現場教師は月に80時間を超える荷重ワークの中で下支えしてきた。それを令和でもやるのか」
これがリアルな現場の声なのかもしれない。
教育に明るくない人間から見ても、情報量に目が回りそうになる。本来スクラップ&ビルドのはずが、ビルド&ビルドになっていないかとの指摘はもっともだった。篠原教授はさらに問う。
「withコロナにおいて唯一良かったのが、今ある制度や政策や実践を見直す、いわゆる不要不急を検討しようとしたこと。中教審は不要不急で検討しなかったのか。場合によってはトリアージの発想(治療の必要のないものは諦める)もあってよかったのではないか」
「これを教育委員会と学校現場がやるんですよね? まあコロナ対応とICT対応でそんな時間は到底ないのではないかと思うのです」
畳み掛ける問に一瞬の沈黙が場におりた。
パネリストの構成上致し方ないが、熱が篭るにつれ、少し浅野氏が袋叩き状態である。 「すみませんね、文科省を代表してひとりで受けて……これに直接関わっていないものもあると思います」
進行の玉置教授がすかさず場を和まし、慣れた様子で笑いながら浅野氏は返した。
「まず先に働き方改革の考えがありました。それを進めながら、令和の学校をどうしていくかを考えていった。(中略)図に書かれていることは既に現場で動いていること。ICTの活用は最初は戸惑うことも多いと思いますが、教材の採点や準備の時間、公務の支援システムを使うことで働き方改革にも役立つと思います」
追加、追加、追加……では現場はパンクしてしまう。
それを改善する手段の一つがICTであり、取り入れれば出来ることは増えていく。しかし、導入に際し慣れるまで混乱することもまた必至。
もどかしくあるが、結局は鶏が先か卵が先かなのだ。
ICTを活用しながら、どのようにスクラップ&ビルドを行っていくか。今後注目されるところだ。
「個別最適な学び」とは結局、どういうことか?
議論は終盤にさしかかった。
「個性化教育論」というのは実際には30年近くずっと主流として語られてきたもので、言葉自体は耳にしたことがある人も多いだろう。それがなぜ今改めて掲げられるのか疑問が上がった。
「とても大事な概念なので深く理解した上で具現化していきたい」
と玉置教授が言うが、現状「個別最適」というワードはあまりにもふわっとしていて、個人の解釈に委ねられている気がしてならない。
篠原教授が疑問を投げかける。
「最も問題になると思うのは個別最適な学びって何ですか?ということです。それは学習の個性化を重視した教師の指導の個別化のことです。指導の個別化ってなんですか?それは学生の個性化を重視することです。
完全な同義反復ですよね。AはBである。BはAである。これをうけて現場の教師が授業の中にそれを具体的な実践としてイメージできるのでしょうか?」 場にいる教育関係者全員が大きく肯いた。
「個別最適な学びって分かっている人ほとんどいないんじゃないかなって。(中略)私自身個別化って言われてもどういう風に……。ちょっと大きな塾ではドリルなどでガンガンやっているし、ネットでも学習はできるし……」(芳賀教授)
吉永教授も続く。
「表現力という点で多様化と個別化は進んでいくだろうなとは思う。ただ、やはりそこには問題も孕んでいて、それは個人がデータ化されてしまうという問題です。それはデータを提供する側が、何を出し何を出さないか、という判断の問題でもあります。でも、過去には、データを握った人間がそれをどう使うかわからない、という不幸な歴史がありました。そうした危険をどのように防ぐか……。哲学者としてその心配が拭えない、というのがあります」
実際、吉永教授の不安については、国会の審議の中でも指摘されたそうだ。データの取り扱いは慎重すぎるくらいに進めていく必要がある。 「どういう風に萎縮せず、かつデータによる個人のプライバシーの弊害になることを起きないようにするかというのは、同じ認識です」
浅野氏は語る。
「個別最適化の学びについては、戦後から謳われていたことだけれども具体的に進んでこなかった。けれどもGIGAスクール構想で一人一台端末が入りICTを活用し、さらに1クラスのサイズを小さくしていくことで、今まで謳われも出来なかったことを進めることが出来る大きな転換期にきているのかなと思います。
今まで言ってきたことと全く別の個別最適な学びではなく、ツールが揃ってきたからこそできるチャンスが訪れているのかなと」
それでも理念そのものが総論の核になる「個別最適な学び」。 わからない旗印を掲げられても混乱するだけである。
「できれば現場の教師がもう少しイメージしやすい形で、アピールとして出される必要があったのではないでしょうか」 と篠原教授が穏やかに、けれども厳しくまとめた。
令和時代の教育をリードするために、まず何をするか?
最後に、各教授が思いの丈を語った。
「GIGAスクール構想は、現代社会の中で良き市民になっていくためのものでなければならない。今までの情報化は学校の中だけ、授業の中だけだったが、これからは日常の中、使いたいときに使うという選択する幅が広がったと捉える必要がある。端末は共有物ではなく今度は個人の所有物になる。使うのに先生に許可を一々とるものでもない。だからこそ保護者にも協力を仰ぎながらGIGAスクール構想での一人一台を進めていく必要がある」 「well-being」人々の幸福を目標にツールを使っていく感覚を耕していくことが大事だと芳賀教授は一貫して語った。
「世界では在宅での学習は授業として最初から認められるように動いている。一方で日本は学校は行くべきところという制度主義・履修主義から脱却できていない。就学様式の自由化を本当にやっていくなら、場合によっては個別最適な学びを制度上においても保障すべきではないだろうか。それによって“不登校”という言葉そのものが世の中からなくなる。そういう制度のあり方も考えるべきではないだろうか」(篠原教授)
それはとても開かれた、希望のあるものに思えた。
「浅野氏は昨年オンライン診療とオンライン教育を内閣府が方向付けようとしたことに対し、待ったをかけた。
そして“教育は寄り添うべきものである”という言葉をあなたは河野大臣から引き出した。企画課は文部科学省の筆頭課なので、ぜひ頑張っていただきたい。 最後に、エールで終わりたいと思います」
篠原教授は今日一番の穏やかな表情を見せた。
吉永教授も、哲学者として希望を託す。
「伏線回収ではないですが、令和と銘打つからにはそれがどこから来たのかを考えなければならないと思います。私たちの教育の源流は明治にあり、延長線上に私たちがいる。その時に思い出したいのは中江兆民という思想家が言っていたように、民権という考えはすぐには身につかないということです。民権思想はその種をずっと蒔き続け、何百年もそれが育つのを待たなければならない、というのです。私たちにとって今、中江兆民の目指したことがどの程度花開いているかわかりませんが、こういったこともGIGA構想のもう一つの柱としていただき、自由や民権をシティズンシップ教育として入れていただきたいと思います」
「私どもも令和の答申を出して終わりではなく、この先今日の意見を考慮しながら、文部科学省の最大の局で、緩めることなくやっていきたい。力強いご支援を手子にこれからもしっかり頑張っていきます」
3人のエールのバトンを受けとり、浅野氏は力強く締めくくった。
フォーラムを終えて
およそ2時間に無事にフォーラムを終え、進行役を務めた玉置教授に感想をたずねると
「パネリスト3人が個性的なので面白かったです! 哲学者・教育行政学・情報教育と良い組合せだったと思います。文部科学省の方が来てくれて、今後変えなければならないことを確認し、提言できたのがよかった。なかなかそういった機会はありません」
と晴々とした笑顔で応えてくれた。
玉置教授自身、今回のフォーラムでも語られた「個別最適な学び」については、子供時代の体験より深い思いがあった。
高校の時の授業がきっかけで落語に興味を持った玉置少年は落語の公開録音に葉書で応募。思いがけず当選し、はじめて生の名人の落語を直に聴いたら「こんな面白いものはない!」とさらに書籍を購入するほどのめり込んでいった。その後も、何度も大阪までの新幹線のチケットを自分で買って行くようになったというのだ。
つまり、と玉置教授
「個別最適な学びとは、自ら次から次へとおもしろい・知りたいと感じたことを探し、学びを自分で作ることができる、ということだと思うのです」
それはGIGAスクール構想を通じ、学校でICTは自分の学びを豊かにするための道具なんだということを体感できれば、自然と身についていくことだろう。興味や好きなことを広げていく、というのは難しいことではない。
「いつまでも先生は側にいないからね」 教授の言葉は寂しいが、どんな状況でも子供たちは未来を見据えて歩んでいかなければならない。
それにしても今日1日で何回「ICT」という言葉を聞いただろうか。
これだけで、今後ICTの日常化が当たり前になり、さらに加速していくのだと想像できる。取り残されてはいられない。
「システム的にはあまり機械化するのは怖いけど、今後は思っただけで動く、くらいになっていくのではないでしょうか?管理、管理になるのは嫌だけどね。それでも夢のようなことが起こってきている。スマホだってこんなに普及するとは思わなかった。けれども、どんな時でも忘れてはいけないのは、それが子供たちのためになるのかということ。利益はもちろん必要だけれど、企業が儲かるためだけを目的に作ってはいけない。それがwell-beingになるのかを考えていきたいですね。
そして今学生の子たちにも、もっと大胆にやっていってほしい。ICTを、夢をもって使っていきたい」(玉置教授)
今まさに足場を固め、言葉をしっかり咀嚼し、消化しながら令和時代の教育は作り上げられていく。
今日、話を聞くまでは希望より不安の方が大きかった。
まだ手探りであることは否定できず、ICTに触れる教育を受けてこなかった先生たちにとっても新しい世界だ。それでも玉置教授は力強く笑って言った。
「恐れるなかれ!まずはやってみることが大事なのです」
デジタル・シティズンシップの理解と浸透に向け、令和の教育は、今新しいステージへ上がった。