教育フォーラム2024「令和時代の教育をリードする」が開催されました

2025.1.9

2024年6月2日(日)に「教育フォーラム2024」が開催されました。恒例になったこのフォーラム。岐阜聖徳学園大学主催で、教育の最前線で日本の教育行政や環境など5年先、10年先の教育を考えている方を招いて、最新の情報共有と意見交換を行っています。全面実施後、小学校・中学校・高等学校で、それぞれ5・4・3年目となった学習指導要領。今回は、文部科学省でこの学習指導要領改訂に深く関わられた文化庁次長合田 哲雄氏に、 現学習指導要領の捉え方や今後の学習指導要領を創るための議論の仕方などについて語っていただきました。後半は、合田氏の講演を受けて、今後の 幼小中高および大学教育はどうあるべきか  合田氏 、寺田 光宏教授(岐阜聖徳学園大学)、  松本 和久教授(岐阜聖徳学園大学)、  中島 葉子教授(岐阜聖徳学園大学) 、玉置 崇教授(岐阜聖徳学園大学)で学校教育の方向性について論議しました。ここでは、合田氏の基調講演をまとめました。


学習指導要領」とは、全国どこの学校でも一定の水準が保てるよう、文部科学省が定めている教育課程(カリキュラム)の基準です。およそ10年に1度、改訂しています。 子供たちの教科書や時間割は、これを基に作られています。10年とはいえ、社会の変化や子供たちをとりまく生活環境などその早さに対応し、先へ先へと教育について考えられています。合田氏の講演の中でも、これまでの動きとこれからの動きについて具体的に述べられましたので、学生の皆さんにも大いに参考になったと思います。

合田 哲雄(ごうだ てつお)  1970年生まれ。1992年文部省入省。福岡県教育庁高校教育課長、国立大学法人化(2004年)や2008年学習指導要領改訂の担当、NSF(全米科学財団)フェロー、高等教育局企画官、初等中等教育局教育課程課長、内閣官房内閣参事官(人生100年時代構想推進室)、初中局財務課長、内閣府・審議官等を経て2022年9月から文化庁次長。兵庫教育大学客員教授、東北大学非常勤講師。単著に『学習指導要領の読み方・活かし方』(教育開発研究所)、共著に『学校の未来はここから始まる』(教育開発研究所)、『探究モードへの挑戦』(人言洞)。目黒区立の小中学校のPTA会長を6年間経験。

学習指導要領-「読み方」・「活かし方」 から「議論の仕方」・「創り方」へ

今日のお話は私が2008年と2017年の改定にあたって担当課長としてのお話になるかと思います。昨年このフォーラムでお話した武藤氏が4月から教育課程課長に就任し10年前の私の立場になり、いよいよ次期改訂に向けて議論が本格化すると実感しています。指導要領の改訂には少なくとも3年間かけて準備します。3年間でどのように議論し、創っていくかという視点が大切だと考えられます。社会が教育に対してどういう期待をしているのか、教育が今の社会の構造の中でどのような役割を果たしうるかという視点でお話させていただきます。

改訂の前にはその主軸となりうる考え方(レポート)が打ち出されます。例えば2008年(平成20年)の改訂では「言語力育成協力者会議」が立ち上げられ、ここで「各教科における言語力の充実」という各教科を越えて横串で言語活動を行っていくことが色濃く出されました。2017年の改訂においては、育成すべき資質能力を踏まえた教育目標・内容評価在り方検討会で議論が進められました。このときに、それまで知識の体系だったものが、資質能力に転換していこうという方向性が打ち出されました。

次の改訂は昭和33年に学習指導要領が公示されてから8回目の改訂になりますが、これまでとの大きな違いは子どもたち一人一台の情報端末を持っているという、世界でも恵まれた情報環境の中での改訂で、ポストGIGAスクールという要素があります。今回の改訂こそ単に学習指導要領の問題だけでなく、教育体系や教員配置基準、教員免許、また校長や教育長といった教育リーダーをどのように確保するのかということと一体で議論することがあります。

GIGAスクール構想の枠組み

GIGAスクールスクール構想は2019年にスタートしましたが、その前年にSociety5.0に向けた学校バージョンSociety3.0などが出されています。実際に2017年の改訂では、校種や教科などの縦割りの構造が相対化してきました。このときに大変参考になったのが、教科という枠組みがない幼児教育や学年が相対化している特別支援教育で、多くのことを学ばせていただきました。学校は一人ひとりの子供の学びを支えるものですが、学校だけがその独占体ではないと言うことも考えねばなりません。そのためには自分で自分の学びを組み立てる重要なツールとして一人一台の情報端末が公正に行き渡る必要があります。これは教育行政に携わる私の思いですが、子供たちの学びの転換の議論をしようとしてもその土俵が割れています。教育も教育行政も内発を誘発するための外発だと考えています。やはり内発が大事。内発を引き出すための外発の仕掛け。これも教育改革という名の外発の倣慢。内発と称する諦念。外発と内発とが交わっていないところが問題です。

コンクリートから人へ

学校の実態を踏まえて予算を増やせ、という声もありますが、実際には人生前半の社会保障と人生後半の社会保障のせめぎ合いになっています。2024年度の予算を見てみると、政策経費は67兆円、社会保障の経費は37.7兆円、文科省の経費は5.3兆円、私が担当している文化庁は0.1兆です。社会的合意を得て、何とか教育にお金をまわすことを考えています。

橘怜というコラムニストが書いておられます。「公共政策としての教育問題に関心を持っていない親はいない。なぜならすべての親は自分の子供の教育だけに関心をもっている。」この言葉は、私が東京の公立学校でPTA会長をさせていただいたときに実感しました。ただ、この親の愛情をだめだとは言えません。親の愛情こそ教育の基本です。ただ、「ほんの少し自分の子供以外の子供に関心をもってもらうと教育はぐっとよくなりますよ。よくなりますよというのは楽しくなりますよ。」ということです。このことはPTA会長の時には申し上げてきました。

経済界方は、「教育界は閉鎖的なぬるま湯だ。競争原理を導入しろ。」とか「俺の時は1クラス60人いた。あの頃の方がずっとよかった。」という暴論を耳にすることもあります。「勉強とは好きを諦めさせ、嫌いを強いて総得点を上げさせる修行だ。楽しいはずはないだろう。」と仰る方もあります。他方、教育界の中では「あれは先生だからできること」「教師のみが『人格完成』をになっている」「営利目的の企業とは連携できない」など議論の土俵が割れているわけです。


対話の共通の「土俵」は何か

NPO法人カタリバの代表理事をさせている今村 久美さんが昨年お書きになった「不登校 親子のための教科書」は大変重要な本だと思います。「不登校は誰がなってもおかしくない」「不登校30万の増加は子どもたちからの増加でもある」「親は『自分の育て方が悪かった』なんて思わなくていいし、先生たちは『教師失格だ』なんて思わなくていい。」まじめな先生ほどそう思っているのですが。社会に歪みがある以上、犯人捜しはこのあたりでおわりにして、みんなで変えていくしかないと思っています。今、まさに変化の波がきているのではないでしょうか。アラートを発してくれている子どもたちを課題解決のパートナーとしてとらえながら、自分たちの在り方を考え直し、みんなでつながり直す。そんなチャンスが来ているのではないでしょうか。私自身も二度の学習指導要領に関わり、揺蕩いがありました。その揺蕩うが社会構造の変化の中で増幅しているのが変化の波ではないでしょうか。

社会的自立とデモクラシーの視点からの「変化の波」

私事で恐縮ですが、公教育は私たち官僚は没個性で行っておりますが、他方でその人が歩んできた道は政策に影響がないかと言えばかなりあると思います。首都圏、大都市圏では中高一貫の学校の卒業生が増えています。彼ら彼女らにとっては、分断とか格差はアジアの貧しい国のことだと感じています。なぜならそういう場面を見たことがないからです。私は小中高と倉敷の公立学校に行きました。いろいろな子がいました。その子たちと小さな社会を形成したことは今仕事をさせていただく上で、大いにプラスになっていると思いますが、一定の学力、一定の職業、一定の所得を得られている家庭の方とは感覚が異なると感じています。私は公立学校で学ばせていただき、私の人生において学びとは何か、評価とは何かを教えてくれた先生がいらっしゃいました。父親から自立するにあたり、公立学校教育、多様な背景と関心、特性をもった集団の中で生きていくという感覚は官僚としての大きなアドバンテージになっています。一方、好きを諦めさせて、嫌いを強いて総得点を上げるゲームには違和感を招き、最後までなじめませんでした。ただ私の場合は違和感と感謝を並べると感謝の方が大きく、学校に行かないという選択肢は無かったです。

違和感の歴史的背景

この違和感は歴史的な背景があったと思います。今年学制152年ですが、152年前は「必要な記憶力と根気さえあれば」と司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」で書いています。それまでの封建的な社会と違い、学校で必要な記憶力と根気さえ示すことができれば自分の人生を変えることができると、学校は本当にキラキラしていました。その分「坂の上の雲」の成長体験と慣性はうらはらで、必要な記憶力と根気を示すためには「読むこと」と「書くこと」が著しく重視されていたと思います。試験時間内に問題を読み、正解を書く能力の偏重です。工業化社会では計画的な勤勉性と文書主義が必須で子どもたちは慣性に合わせる必要があり、そこにズレが生じたわけです。例えば一昨年から急速に普及し始めた生成AI.チャットGPTやGPT4によって、ある意味では読むことと書くこととの能力が現れているわけです。デジタル化に伴い同調化と正解主義により、今の子どもたちは本当に大変だなあと思います。今はスマホでSNSによりどこにいても追われているわけです。今村 久美さんに申し上げました。「なんで(この人間関係を)切らないの。私だったら切るよ。」そしたら「それは、あなたが本当に分からないのよ。この子たちにとってこの人間関係から切れることがどんなに辛いことか、これまでこういう生き方をしてきたあなたには分からないのよ。」と。当然デジタル化でフィルターバブル化という現象により機能不全が起きています。また、記憶力と根気の限界があらわになっています。日本の情報セキュリティーは、「雪原で白兎を見つける力」をもったこれまで学校教育の中で切り捨ててきた方の中に守護神がいるということです。霞ヶ関の役人が100人いようが200人いようが情報セキュリティは守れません。

生成AIがあたりまえのように活用される社会

今議論されている子どもたちの学びの転換が、まさに生成AI時代に生きる子どもたちに必要な力を育む重要なポイントになっていると思います。例えば、生成AIの回答をチェックする力が必要となります。国語事典を持って一語一語調べるのではなく、ぱっと見たときに「なんかこれ違う」と違和感を持つことが大事です。そのためには教科書の脚注をいくつ覚えたかではなく、自分の頭の中に知の構造、知の地図が必要となってきます。二つ目には、問いを解く以上に問いを立てることが大事になってきます。三つ目には、知性とは、脳以外の身体感覚が統合して生まれるものということです。AIには身体がありませんから、ふわふわしたぬいぐるみの触覚と視覚から人間の感情に影響を与え、その感情が言語となって表現されることはありません。四つ目は、いわゆる議論の場では相手がどういう立場でどういう経歴でどういう考えをしているのか推し量りながらよりよい議論にしていこうとするわけですが、生成AIは単なる情報としか受け止めません。主体的対話的な深い学び、各教科の見方・考え方はまさにこういう時代に子どもたちに求められる力を育む重要な要素になってくると思います。

今を読み解き、時代を考えるための4冊

私が今を読み解くのに重要だと考える4冊を手短かに紹介させていただきます。

1冊目は文部科学省の図画工作調査官でいらっしゃった奥村 高明先生がお書きになった「コミュニティ・オブ・クリエイティビティ」(日本文教出版 2022年)という本です。イノベーションとかクリエイティビティとか、ものすごく高度な話のように聞こえるかもしれませんが、心理学の阿部 慶賀先生(和光大学)がそういうのはひらめきですよね。ひらめきやすい人は、初めから偏見をもたない、柔軟に考えを改めることができる、自分の誤りを適切に見直せるということが心理学の実験では明らかになっています。2冊目は、インクルージョン研究者の野口 晃菜先生の書かれた本で、「差別のない社会をつくるインクルージョンシブ教育」(学事出版 2022年)では「ここまでいけばインクルージョンというのではなく、世の中がどんどん変わっていくなかで、どこまでも人の考えを変えていくのがインクルージョンだ」という考え方があります。3冊目は、宇野 重規さん、若林 恵さんの対談ですが「実験の民主主義」(中公新書 2024年)という本があります。学校は子どもが安心して失敗を重ねることができる場所。そのためには、一つの共通のゴールから必要な能力や人材を選別するという発想ではなく、「何もできない人はいない」「みんな自分の力の及ぶ範囲内で何らかの実験をして、それに何の意味があるのかについては、あとから考えればいい」というプログラマティズムが不可欠だと強く感じています。このことは4冊目で紹介するマシュー・ウイリアムズ教授(英・カーディフ大学)が書かれた「憎悪の科学」(訳書2023年刊行)にも重なりまして、この本はどういう条件がそろえばヘイトクライムが発生するのか、どうすることができれば防ぐことができるのか、憎悪をなくすための七つのステップが書かれています。よくよく考えるとここに書かれていることは小学校の先生に聞くと、これは学級経営の大事な要素ですよと仰るわけです。日本の学校の強みはこういうことだと思います。

デジタル化時代における公教育固有の普遍的意義

次の指導要領改訂でどうしても軸足に置かなければならないのはデジタル化です。デジタル化はどういう変化かというと「あらゆる社会サービスがその軸足をサプライサイド(供給側)からデマンドサイド(需要側)に移し、「みな同じがよし」から他者との違いに意味や価値がある社会へと転換するということです。情報端末がこれまで二次元でしか見られなかったものが、三次元で見られるようになったということではなく、自分の思考を拡張したり自らの学びを調整したりする重要なツールとして、自らの固有の関心や特性を生かして「わがままに」学びを重ねることが大事になってきます。だからこそ自分の学びにわがままであることと他者への関心や特性に敬意、リスペクトを持つことが必要です。小さな社会である学校において、学びや体験をとおして「共生の作法」は尊厳が尊重され多様性のある社会の土台だと思っています。他方、デジタル化はフィルターバブルと社会の分断とデモクラシーの劣化を招いているのも事実です。短期的な利益や一時の感情を越えて、教科等の見方・考え方を働かせて、忍耐強く考えたり、トレードオフの中で他者と丹念に対話を重ねて合意することが、自分にとっても他人にとっても長期的にみれば幸福につながるということが公教育の役割につながるのではないかと思っています。学校はデジタル化時代のデモクラシーの質にとって最後の砦だと言えると思います。

私が「共生の作法」という表現を使うきっかけ

私が「共生の作法」という言葉を使わせていただいているのは、私の造語ではなく今から40年ほど前に東京大学の法哲学者の井上達夫先生がそういう書名を書いていらっしゃることからです。(井上 達夫『共生の作法-会話としての正義-』(創文社 1986年)「コミュニケーション」は「会話」とは違います。コミュニケーションは社会的合意の形成と、ある一定の方向性をとっていくためのものですが、会話は、さまざまな観点の人たちが無理に周囲にあわせることなく他者とつながり続けること、そのこと自体に価値を見出すことが会話だと言っておられます。会話に必要なものは、自他の違いを必要な者と考え、他者を尊敬と配慮に値する独立した存在だと相互に認める実験知、これが共生の作法というふうに仰っておられて、会話としての正義とつながります。このことは宇野重規教授の『実験の民主主義』の本の内容と重なってくると思います。好きを諦めさせて嫌いに取り組ませることによって総得点を上げるゲームは終焉したと言わざるを得ないし、標準化だけでなく即興性と個別性、創発性に重点を移行していくのですが、他方で自他の違いを等しいものと捉え、他者を尊敬と配慮に値する独立した存在だと相互に認めることが大事になってきます。これまでの基礎学力は、皆と同じことができるための基礎学力でしたが、これからの基礎学力は他者と違うということを認めながらも共生の作法としての学力ととらえ直す必要があると考えます。

通常のサイクルであれば次の指導要領改訂は2027年頃となりますが、2019年にGIGAスクール構想が発表されました。2022年には内閣府のイノベーション会議、2027年ごろに指導要領が改訂されるのではないかと思います。まさにこの3年間は、読み方生かし方というよりは論じ方つくり方というフェーズになるのだろうなと思います。

先ほど総合科学技術イノベーション会議の政策パッケージは、所謂答申のような文章ではなく、図表でできています。(図の)左側が今の学校、右側が一人一台の情報端末をもった学校を表しています。ここで強調したかったのは、中学校の一つのクラスの中に不登校、不登校傾向のお子さん、発達障害の困難さに向き合ったお子さん、ご家庭の文化資産に恵まれているとは言えないお子さん、日本の先生方は単純に割り戻したとしても中学校の40人学級でこれだけ多様なお子さんと向かいあっています。首都圏、大都市圏の中高一貫校ではこれがない。この多様性は、次の時代を担う上で重要になってきますが、情報端末を活用して子どもたちの特性や関心に応じて子どもたちの力を引き伸ばしていくために、情報端末は重要なツールとして欠かせないものです。個別最適な学びとデモクラシーの基盤である協働的な学びの一体的な充実を令和の学校教育答申が強調しているのもその所以です。

改訂の軸になる教科の見方考え方

見方考え方というのは、もともと算数数学的見方とか科学的な見方と言われてきましたが、2017年の改訂で全ての教科において明確にすることにしました。これは、特に中学校の場合は、選択科目がないため全ての教科の内容は全ての子どもが履修しなければならないことになっています。言葉は過ぎるかもしれませんが我々大人はこの内容を子どもたちに強制しているわけです。そうなりますと、これまでは「これ分かっておかないと高校に落ちるぞ、大学に落ちるぞ」と言えばよかったですが、今の子どもたちにはこの学びが何の意味があるのか、あなたの人生にとって何の意味があるのかを伝えていかなければなりません。例えば社会的な事象の見方考え方であれば、歴史を因果関係でとらえるとか相互作用でとらえるとか比較の視点でとらえることができるようになることが、あなたがこれから社会に出て、社会生活を営む上で、未知の状況に立ったと思う中で歴史に立ち返って考えることができるのは見方考え方を働かせることができるからですよ、ということに他ならないわけです。そういう意味では、見方考え方はそれぞれの教科の最大のセールスポイントだと思っています。探究的な見方考え方に関しては、これから社会に出ると、問いは教科縦割りで出てくるわけではありません。教科を越えた問いに対してどの教科の見方考え方を組み合わせるのか。多様な角度から俯瞰してとらえる。実社会実生活の文脈から空理空論ではなく、取捨選択するのか、自己の生き方と関連づけて、安易に答えを出すのではなく、問い続けることが総合的な時間や探究的な時間の見方考え方になると思います。これが生成AI時代に最も大切な軸だと思いますし、次の改訂においても、「教育内容をどうしていくのか」「どう取捨選択していくのか」というときにこの見方考え方が重要な枠組みになってくると思います。

見方考え方を中心にした次の改訂は、文部大臣の告示という紙の世界だけではなくて、他の教育システムと連動させなければならないと言うことです。初等中等教育に投じられているリソースを一般的なマネジメントに即して、「ヒト」「カネ」「モノ」「時間」「情報」に整理すると実に複雑な仕組みです。それは複雑にすることが目的だったわけではなくて、全国一律の教育条件を整備したいという昭和30年代の教育関係者の熱い思いがあったからです。

その結果、公立の小中学校で年間10兆円のお金が投じられているわけですが、それは人件費、ランニングコスト、物件費など、こういう費用分担をしています。

政策的なトレンド-骨太2023

先生方にとっては「骨太2023」は遠い存在かもしれませんが、学校にとっては本当に重要な政策文書です。骨太の方針は6月の中下旬に閣議決定される文書で、一言で言えばその骨太に書かれなかったことはその後1年間は政策的に全く動かないということです。来週から霞ヶ関ではこの骨太の方針に向けて「大闘争」が始まるわけですが、昨年の補正予算、今年の予算、5月13日に出た中教審から出た審議まとめなどを組み合わせていくと、基本的に初等中等教育に関する枠組みの改善していくことが重要だということになります。人確法の初心に立ち返った教師の処遇改善、多様なエッジをもった専門家が普通免許を取得できるための免許制度の改善。教員の配置や学校施設の改善。デジタル化を前提にした教科書や教材の改善。また、確実に進めていかなくてはならないし、進めざるを得ないと思っていることが、「学校間接続のデジタル化」です。2026年から司法試験がCBT(Computer Based Testing)化します。全国学力学習状況調査もCBT化に取り組んでいますが、これらにより試験の構造が大きく変わると思います。学校間接続が進めば、パフォーマンス評価、評価する側が評価されることに取り組まざるを得ない。そうなると教育マネジメント、リーダーの資質能力も大きく変わってきます。教育長や校長にどういう人を得るのかが大事になってきます。今年4月21日に一般社団法人LEAPが設立されまして、ここは教育政策リーダーフォーラムで、いろいろな分野の教育リーダーの卵をプールしておき、依頼があればリーダーを派遣できるような体制をとっていきます。

領域や教科、学年、学校を越える難しさ

ここから先は私の私見だと思って聞いていただければと思います。教科や学年、学校を越えると言っても「難しいよね」というご批判もあると思います。152年もこれでやってきたわけですから。ただ、高校で言えば、ピーク時から子どもたちはほぼ半分になっているわけで、この状況の中で、かつては少人数学校をどうするか、統廃合を含め、どうするかという議論が小中学校を中心に行われてきました。今は高校で深刻な問題になっています。カタリバの中川(中川 玄)さんが東大公共政策大学院に出したレポートによれば、公立高等学校における配置はトリレンマだと言っておられます。行政にとっては小さい学校がありますとコストがかかってしょうがない、子どもたちにとってはジレンマで、身近な学校がなくなるとアクセスがしづらくなる、他方であまりに学校が小さいと選択肢が減ってしまう。中川さんはレポートの中で、教科学習における学習の個別最適化、規模が必要な科目における学校横断での授業、学校横断での教員配置、教員の分業化、学校設備の所有から利用へ、というようなことを提案しており、私も子どもたちの学びが成り立たなくなるのでこれしかないと考えています。

私の個人的思案

高知県の高校の先生方とシンポジウムでご一緒させていただきました。先生方からは「うちの子どもたちは人間関係が狭くて」と指摘されていましたが、私は、大人数の学校でも首都圏、大都市圏の中高一貫校のように同じような環境で育った、同じような学力の同性という著しく同質性の高い環境と比較して本当に『狭い』と言えるのかと疑問に思います。小規模とはいえ多様な特性、関心をもつ他者との関係性の中で育つこと、さらにデジタルを活かして、それを拡張していくことにより得られる体験は、将来の社会生活における意思決定や判断の質を高める上でプラスだと思います。そういう意味でも小規模校においてさまざまなことに挑戦し、自分自身の関心に応じた学びを得ているのであれば、学校や学級の規模を越えた意義があるのではないかと思います。

学校教育法自体に限界がきているのではないかと思います。第37条には小学校には・・と組織のことが書かれています。第32条には小学校の修業年数は6年とするとあり、教育課程のことが書かれています。つまり学校教育法は、組織としての小学校と教育課程としての小学校と一緒になっているわけですが、学校教育法と言っているが、実は学校組織法だということも言われた。152年前には学校という組織はなく、それを可視化するためにつくられました。学校をおけば、教育課程は自動的に走ると考えられてきました。子どもたちの学びが組織によって拘束されていることも事実だと思っています。

小学校を『初等教育プログラム』に変えていく必要があると考えています。そのことにより、誰が教えているのかとか、どんな組織であるかということよりどんな学びが行われているのか、学びを成立させるためにどのようなリソースを使っているのかという方向に行く必要があるのではないかと思っています。教育課程や教育プログラムを主軸にして指導要領の議論に入っていくと思います。

学びの転換で問われているのは、私たち大人自身

子どもたちの学びの転換が行われるかどうかは、我々大人の問題だと思っています。「主体的な学びをしろ」とか「探究的な学習をしろ」とか言っている場合ではないと思います。京都市立堀川高校の2年生の方と話したとき、「みんな同じがよしとされる社会は本当に変わるのか」ということが大きな話題となりました。決して大人を一方的に責めているわけではなく、標準化の極みの学習塾でしのぎを削って堀川高校に入った自分たちに探究的な学びは可能かという疑問も彼女たちはもっています。みんなと同じがよしとされる社会は息苦しい。しかし、年長者にとってはぬるま湯のように居心地がよく、そういう人は勉強は好きを諦め嫌いに取り組むことによって総得点を上げる修行だと言ってしまいがちです。

大人も子どももですが何よりも大事なのは、立場や年齢をこえた異論や思わぬ発想を面白がって学ぶ感性だと思います。個人の自立にとっても、イノベーションにとっても、デモクラシーにとっても大事だと思います。あるシンポジウムでご一緒させていただいた若い起業家は、「老害は年齢とは関係ない。学びを止めた人が影響力を行使するようになった瞬間に老害が生じる」と発言され、私もそのとおりだと思いました。従いまして、「老若男女問わず、属性や立場を越えて自らの特性や関心に応じた学びを重ねることにわがままでいい」ということを我々大人が本気で思わないと子どもたちは、大人の先入観や欺瞞には大変敏感だし厳しいので、大人がそう思う必要があるのではないかと思っています。

この指導要領の改訂は、これまで7回あった改訂とは根本的な構造が異なります。ただ、今までの教科研究や教科の学びの積み上げが無意味になるのではなくて、子どもたちが自らの関心や特性に応じて学びを進めるにあたって、教科の学びが大いに役にたつということを子どもたちがいかに共有するかということが大事になってきます。そのためには先生方には専門の教科がおありですので、その教科がいかに重要で、わくわくして、そして社会を変えてきたか、我々の意識を変えてきたかということを子どもたちにお伝えいただくことが大事ではないかということを思っています。









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